特に就職活動というものをしてこなかった私は、大学を卒業する直前まで本当に呑気にアルバイトをしていました。アルバイトは中学時代の先輩の親が経営するスーパーマーケットで、都内に4店舗ほど出店していたのです。私は既に大学時代の4年間、その先輩のもとでアルバイトをしていましたから、仕事は既に正社員並みに知り尽くしていました。
とりあえずはアルバイトから正社員へ
そして、ある日のことでした。その先輩からいきなり、「就職する当てがないのなら、とりあえずここで働いたらどうだ」と言われました。私は特にやってみたいという仕事もありませんでしたから、すぐに先輩の話に乗り、大学卒業と同時にそのスーパーマーケットに正社員として就職したのです。
このようにアルバイトから正社員になるというパターンは、そのころから多く見られる傾向でした。この話は既に30年も昔のことなのですから、あの当時は就職氷河期という言葉も使われず、高望みさえしなければ働く口はそこら中に転がっていました。ちょっと言い方が雑かもしれませんが、事実、そんな感じだったのです。
そういう時代でしたから、私は特に就職とか正社員とか、または終身雇用とか、そういう堅苦しい型にはまることなく自由に生きていたのでしょう。今考えるとなんであの時にまじめに就職活動をしなかったのか、と悔やまれることもありますが、これはこれで良かったのではないかと思える節もあるのです。
店内で目にしたポスターのキャッチフレーズを見て心機一転
スーパーマーケットの仕事というのは、各部署で内容は異なりますが、私が所属していたグロサリー部門では、主に缶詰めや日配品などを扱っていました。朝、出社するとまず既に搬入された日配品、豆腐屋納豆、漬物などを陳列棚に並べ、それが終わることには朝礼が始まります。
そして、今度は保存できる商品の搬入に立ち会い、検品、定価貼り、そして陳列します。午後には翌日の商品発注を行いながら、店内の商品陳列棚を見回り、少なくなった商品を補充。1日中立ち働き、閉店の夜10時まで頑張ります。これが大体の日課でした。
今はどうか分かりませんが、この当時、業界では週に1日の公休しかもらえません。週休2日制などは考えたこともありませんでした。それでもまだ若かったので、何とかやってこれたのでしょう。あの当時、とにかくがむしゃらに働いていたのを覚えています。少なからずこの仕事が好きになったのも事実です。
コピーライターとして仕事がしたい
しかし、このような忙しない日々が2年続き、私の気持ちもずいぶんと変わりました。まず、何か心にポッカリと穴が開いたような気分になってしまったのです。けっしてやる気がなくなったというわけではないのですが、自分はもう少し違った方面で仕事をしたかったのではないかという思いですね。それがいったい何かというところまでは分からなかったのですが、心のどこかに何かが引っ掛かっていたのです。
そんなとき、ある新商品をスポット特売として陳列して、メーカーが用意した販促物を飾り付けていると、ふとその商品のポスターに書かれたキャッチフレーズが目に飛び込んできました。それはどこにでも見かけるような商品コピーでしたが、私はその言葉を何度も何度も心の中でつぶやいていたのです。そして、ハッとしました。これだと思ったのです。
実は学生時代、私は広告というものに興味を持ち、趣味としていろんな広告を集めていたことがあります。好きだったのはコピーライターの糸井重里や真木準、岡田直也、いろいろです。特に面白広告というものに興味がありました。学生時代には考えもしなかったのだけれど、自分はこのコピーライターという職業に就きたかったのではないか、と思うようになったのです。
不採用を繰り返しても諦めない気持ちが勝利をつかむ
そう考えたら居ても立ってもいられなくなり、さっそくその日のうちに店長である先輩に自分の考えを話し、退職を決意しました。こうした行動は当然ですが親も驚いたようです。次に行くべき会社も決まっていないのですから当たり前でしょう。しかし、私の決意はそれだけ固かったのです。
まずは親に迷惑をかけないように水道工事のアルバイトを始めました。この仕事はかなりきつかったのですが、仕事が終われば直帰できるという特権がありましたから、広告の勉強をするには打って付けだったのです。広告の勉強は自分でもできますが、基本からしっかりとやろうと思い、当時購読していた宣伝会議の月刊誌で募集していたコピーライター養成講座の通信講座を受講しました。まずは夢の第一歩というところです。
3ヶ月の通信講座で就職が決まる
コピーライター養成講座の通信は確か1年間でしたが、私は3ヶ月で辞めてしまいました。なぜかというと、受講して3か月目で就職が決まったからです。こう書くとかなり簡単に就職が決まったように思われそうですが、実はそうではありません。かなり厳しかったです。講座を受講しなら、市販されていた求人情報誌を毎週購入し、コピーライターを募集している広告制作会社に面接に行くわけですが、これがなかなか採用してもらえませんでした。その理由はただ一つ、作品がないから、なのですね。
作品がないと評価されない
求人広告の記事には、未経験者歓迎、とあるのですが、実際に面接に行くと作品がないと評価できないというのです。これはおかしい。だって、作品というものは実際に仕事をして創られるものであって、未経験者が持てるわけがないのですから。こうした矛盾に頭を悩ませながらも、私は10社ほど面接を受けました。そして、その10社目で晴れて採用となったのです。
思いもよらないところで奇跡は起こる
その会社は社員20名ほど抱える比較的に小さな広告制作会社でした。私は希望通りコピーライターとして仕事をやらせてもらえたのです。ただ、まだ初心者でしたから、女性の先輩につきっきりで指導を受けました。そして初めて書いたコピーが活字になり、ディレクターからお褒めの言葉をいただいたのです。あの時は本当に嬉しかった。
転職を決意
毎日、ワープロに向かってコピーを書く、これだけで私は充分に満足でした。そして、あっという間に1年が過ぎたのです。この会社では扱うクライアントは多彩で、いろんな種類のコピーを書くことができ、それはそれでかなり勉強になりましたが、いつしか私は一つのテーマでより深くコピーというものを書いてみたいと思うようになったのです。
信頼していたディレクターが社長ともめて退社したのを機に、私も転職を決意しました。今度は作品と言えるものもかなりありましたから、面接もけっこうスムーズに運びました。
転職さきは産業広告を扱う会社
次に私が入社した会社は産業広告を扱うところで、主に工場内で使われている精密機器の広告のコピーを書くことになりました。ターゲットは今までのような一般の人ではなく、その道の専門の人ですから、かなり勉強も必要でした。しかし、奇跡と言うものはある時突然に訪れるもので、私の場合も思いもよらないところで奇跡が起きたのです。
この広告制作会社では社長の提案で、毎年行われている産業広告協会主催のコピーコンクールに、コピーライターは全員応募することになっていました。このコピーコンクールで、コピーライター歴僅か1年足らずのこの私が、なんと銅賞を獲得してしまったのです。もちろん、社長は大喜び。よほど嬉しかったのか、金一封をいただきました。
このことがあって以来、私は味を占めてしまい、毎年このコンクールに参加しました。そして、その結果は、佳作2回、銅賞2回、そして銀賞1回、もう夢のようでした。会社を退社して20年以上になりますが、今でもあの時の喜びを忘れてはいません。今、フリーランサーとして仕事をしていますが、景気は全くよくありません。仕方のないことなのですが、まだまだ頑張るつもりです。