栄養士から事務職に転職し、料理教室を開講して事業主に!

私は食物栄養学科を出ていたので、就職は栄養士と決めていました。しかし、何個か面接は受けていましたが全て面接で落とされ、卒業後もなかなか進路が決まらず、大学時代に働いていたバイト先にお世話になっていました。

栄養士の仕事、と言っても自分の思うような仕事内容ではない、と言うところも多々ありました。いざ受けたら栄養士では無く事務員であったり、調理補助であったり。それでも若い私たちは資格栄養士と書いてあれば面接に行くのです。

そして、卒業して初めての夏に学校から病院の栄養士の面接を受けないか、と言う斡旋の電話がありました。これはチャンス、と思い面接に行きました。面接と言うより、ほぼ決定の状態での話し合いのようなものでした。この時は若かったのでラッキーくらいにしか思っていませんでしたが、考えてみたらこんな簡単に受かる面接なんて落とし穴しかないですよね。




栄養士を退職し、フリーターに

それでもやっと夏に栄養士という自分の夢の職業を手にした私は、この時はプラスの思考でしか無かったのです。
ひと月は時給で、次の月からは固定給だったのですが、休みはひと月に4回くらい、労働時間は1日12時間以上、その上、残業代が出ないと言う過酷な労働に3ヶ月目にしてもう気持ちも体力もついていかなくなりました。

その時の給料は手取りで12万くらいだったかと思います。どうにかすれば戦えたのかもしれませんが、若さゆえ何も知らない私は『やめたい』と言う気持ちしか残りませんでした。自分の時間も持てず、親もしだいに『頑張りなさい』から『大丈夫?』と言う言葉に変わって行きました。
そして、3ヶ月目にはとうとうその栄養士という仕事を諦め、フリーターとなってしまいました。まだ、実家住まいだったので私には特に危機感もなくバイト三昧で自由に生きていました。

畑違いの事務職に転職

さすがに栄養士を辞めてから8ヶ月、私の親も心配してか、卒業して一年後の夏に小さな会社の事務職の仕事を紹介してくれました。
元々お金にはしっかりしていたのと、パソコン作業も好きで、栄養科も出ているので電卓も早いと言うこともあって、畑違いではありましたが、物覚えも早く周りからの評価は高かったと思います。

もちろん、経理の仕事は初めてで、分からないこともたくさんあり、迷惑もたくさんかけましたが、税理士さんや労務士さんに助けてもらいながら、働いてひと月で前任者が退職したので1人で経理と事務の仕事をこなすことになりました。

ここでは倒産するまでの9年間を過ごしました。途中、大企業の傘化に入ったり、社長が変わったり、方針が変わったりと色々ありましたが、私の確立させた経理の仕事はどこでも扱いやすいものになっていたと思います。もちろん社長が変わった時点で私が残れるか、と言う危機感もあったので、なるべく後任者がすんなりと仕事ができるようにエクセル、マクロを使って簡単な

給料計算や伝票作成のソフトも自作していました。ホームページの作成にも携わっていました。
そして、この職場の一番良かったところはその前に働いていた栄養士の仕事とは違い、残業はほぼ無く、給料体系もしっかりしていたこともあって、私は趣味に時間を費やすこともできました。

仕事をする上で趣味の時間というのは本当に大事だと思います。
いくら良い職場でもストレスは溜まりますし、うまくいかないこともあります。趣味だけじゃ無く、ストレス発散の時間は必ず確保した方が仕事を続けて行く上で必要なことかと思います。
私の場合は、この趣味がのちの未来に大きな出来事に関わって来ます。

結婚し、事業主になることを決意

そして、私はタイミングよく倒産後にすぐ結婚することになりました。生まれた地を離れ、少し遠いところでの生活。
退職金も出て、失業手当もすぐに貰えたので、妊娠中もそれはとても重宝しました。

それでも結婚後は2人の男の子の出産でなかなか働きには出られず、退職金も失業手当も底をついてしまいます。旦那だけの給料では今後、子供達が大きくなった時に不安なこと、それでも外に働きに行けるほど職がないと言う田舎と言うこともあって、旦那と話し合った結果、自分のスキルを活かそう、と言う話になったのです。

事務職の頃に通っていたお料理教室。ここでは自分で教室を開けるまでのレベルまで達し、ライセンスも取得していたので、あとは私の勇気しだいでした。

その頃また、タイミングよく家を建てると言う話もあったので新築が建ったら自宅で料理教室を開こうと言う話になりました。
そうです、今まで雇われていたことしかない私が事業主になることを決意したのです。

料理教室開講

それからは試作やレシピ作りを繰り返し、料理教室開講へ向けて頑張っていました。
そして、得意なパソコン作業で自作でホームページも作り、自分が個人宅へ教室に行く時の気持ちになって組み立てて行きました。

私の場合はまず金額の明記です。教室に行く上で気になるのは金額です。そして、どんなメニューがあるのか、コースという縛りが必要か否か、自由度、自分が行きたいなーと思う教室を思い描きながらホームページとブログを作成しました。

そして、検索に引っかかるように作成したホームページは開講してから間も無く新規の方からのご連絡がありました。とてもやりがいのある仕事ですが、事業主になると言うことはやはり多少なりとも不安はありました。

借金だけは絶対にしない、と言う自分の中でルールを決めました。まずは五万円でスタートです。道具は自分で使っているものを使用し、収入があれば増やして行こうと、思っていました。

そして、教室を始めて半年くらいには月に10人くらいの生徒さんが定期的に来てくれるようになり、最初は一回2名で始めていたレッスンも4人に増やし、平日のみのレッスンに土日もプラスされ、生徒さんは年を追うごとに増えて来ました。

それでも、子供たちはまだ幼稚園児だったので日数の限界はありましたので、月何日かのレッスンに、生徒さんが20人前後で固定はされました。

3年くらい経った頃でしょうか。今度は大きな会館でレッスンをやらないか、と言うとても嬉しいお話もいただきました。そこはレッスンの時間の関係で1年のお付き合いでしたが、とても勉強になりました。

私と病気

自宅教室を始めて5年に差し掛かる頃、私にさらに大きな転機とも言える出来事が起こりました。それは難病に指定される病気にってしまったことでした。とても再発の多い病気で、今現在も療養中です。

それでも、症状が落ち着いたら教室は再開しようと思っています。こんな時は勇気を持って事業主になり、自宅での教室を開いておいて良かったな、と思います。

再開時はさらに、小規模にはなりますが自分の心の平穏が保てます。思い返せば、すべてがここに繋がるように神様が仕組んだ運命だったのか、とも思えて来ます。私の難病は栄養の計算が大事なものですし、事務職で学んだ経理や雑務は非常に教室開講には役に立つスキルでしたし、この自分次第の教室も最初は子供との時間も確保、という形ではありましたが、今の私にぴったりとした仕事となりました。

だから、私は思うのです。
転職をすることはとても勇気がいりますが、必ず自分がやって来たことには意味があるのだと。同じ畑の転職も継続で活かせるのでいいと思います。

畑の違う転職も長い目で見るとこんなにもいろんなことに関わって来ます。
最終的には無駄な仕事と言うのはないんだな、と私は今回の病気で、今、こうして改めて文章にして気付いたのでした。

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